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長野地方裁判所 昭和32年(ワ)101号 判決 1958年12月24日

原告 沼田亮義

被告 霜田豊次

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、「被告は原告に対し金二百万円を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに担保を条件とする仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、

「一 原告は、長野県上高井郡綿内村所在の妙法寺の住職であるが、法界における最後の御奉公として、昭和二十七年頃から、大東亜戦争に散華した二百万の英霊の冥福を祈り、広島、長崎を始め全国八十有地区における、原爆その他の爆撃により惨害を蒙つた戦争犠牲者幾十万の精霊の供養をなすと共に、これら犠牲者の遺家族の心情をなぐさめ、且つ又、大慈大悲観音菩薩の妙智力を仰ぎ、世界平和と戦争絶滅を祈願する意図の下に、長野県須坂市所在の臥龍山頂に世界平和観音像の建立を発願し、着々その準備を整え、昭和二十九年十二月には臥龍山上にその建立敷地の選定を終り、翌三十年九月には、これが事業の後援団体として世界平和観音建立期成同盟会の結成をみて、予算金三千万円の募金にも着手し、更にその翌三十一年八月には彫刻家である訴外斎藤聖香に右観音像の製作を委嘱し、同年十二月その原型の完成をみたのである。

二 一方、被告はかつて右臥龍山に戦争犠牲者の慰霊碑を建設しようと計画し、その経費の出資方について須坂市に陳情したが、拒絶された。同市は、すでに、原告が右と同趣旨の下に企図した前記の事業を後援し、その助成金として金三十万円を交付することを決定していたので、被告の右計画はこれと重複するというのがその理由であつた。そこで被告に、世界平和観音像の建立計画のために、自己の提唱する慰霊碑の建設について同市の賛同が得られないのだとして原告を恨み、何とかして自己の面目をたてようとその機会をうかがつていた。

三 たまたま昭和三十二年三月頃、被告は、同市助役訴外川股相吉及び同市議会議長訴外永井真吉に面会した際、特に世界平和観音像の建立について右両名の意見をただした。被告は、その結果につき、右両名が被告に対し、観世音の建立問題については風聞悪く見通しはつかない、殊に三十万円の助成はまあミスであつたと言明した、との虚構の事実を捏造した上、右の文言を含む一文を草してこれを須坂新聞(須坂市にある須坂新聞社発行)に投稿し、全文そのまま同月十八日附同新開第二百八十九号の寄書欄に自己の名入りで掲載せしめ、一般須坂市民の閲覧に供したのである。

四 被告は、後記のように須坂市における相当の資産家であり、且つ社会的地位を有するので、その言動の影響力は大なるものがある。そこで、右新聞記事は、一般市民に、世界平和観音像建立計画は、須坂市政を代表する同市助役及び同市議会議長が見通しがつかない云々と言明した以上、遂行不能になつたのではないかとの疑惑を懐かしめたのであり、これがために、すでに着々進捗しつつあつた右計画は一頓座を来し、これが実現に心血を傾注していた原告の当該地域における名誉ないし信用は著しく毀損され、その結果原告は物質上の損害のみならず、甚大な精神上の苦痛を蒙つたのである。

右は、被告が前記のような経緯から、世界平和観音像建立計画が遂行不能に陥つたのではないかとの疑惑を右市民に浸透させ、逆に被告の計画する前記慰霊碑の建設を有利に導こうとする宣伝をもくろみ、原告の名誉ないし信用を害することを知りながら、もしくは少くとも知るべきであつたにかかわらず、敢てなしたものというべく、被告の故意もしくは過失に基くことは明らかである。かりに、前記川股相吉及び永井真吉の言明なるものが真実になされたものであるとしても、右のような意図のもとに、これを須坂新聞に掲載せしめたこと自体、右の結果を惹起するにつき被告に故意もしくは過失のあることは右と同断である。

従つて被告は、右不法行為により原告の蒙つた前記精神的苦痛を慰藉すべき義務がある。

五 ところで原告は、現に前記妙法寺の住職である外、長野県仏教会副会長、上高井仏教会会長、上高井郡司法保護司会会長及び上高井公民館連合会副会長の職にあり、他方被告は、須坂市において霜田商事なる商号を以て印刷業を手広く経営し――但し被告主張のように昭和三十二年以前は製袋業を営んでいた――、同市に宅地三筆その総坪数百九十七坪建物三筆その総建坪数三十九坪の不動産を有し、これらを綜合すれば合計金五百万円以上の資産を有するものと推定され、この資産を利用して得る利益は莫大なものがある。これらの事情をも勘案すれば、原告の受けた前記精神的苦痛に対する慰藉料の額は金二百万円を以て相当とすべく、原告は被告に対しこれが支払を求めるため本訴請求に及ぶ。」と述べ、

証拠として、甲第一号証、第二号証の一から三まで、第三号証、第四号証の一・二、第五号証の一から七まで、第六号証から第十号証まで、第十一号証から第十四号証までの各一・二、第十五号証、第十六号証の一・二、第十七号証、第十八号証の一・二、第十九号証から第二十一号証までを提出し、証人川股相吉(第一、二回)、永井真吉、北沢六三郎、中島義昭、鈴木弥之助、源諦龍、夏目勝五郎及び相沢覚の各証言並びに原告本人尋問の結果(第一、二回)を援用し、乙号各証の成立を認めると述べ、尚、甲第二号証の一は、昭和三十一年五月二十六日須坂市勝善寺本堂における世界平和観音建立期成同盟会発会式を同市勝山写真館が、同号証の二は、同年六月七日須坂市臥龍山頂の観音像建立敷地における地鎮祭を沼田大義が、同号証の三は、同三十二年二月二十五日斎藤聖香方における観音像の原型を小林喜一郎が、それぞれ撮影した写真であり、第三号証は昭和三十二年三月十八日附須坂新聞中寄書欄の記事であり、第五号証の一から七までは水原徳言建築工芸研究所の、第七及び第九号証は世界平和観音建立期成同盟会の、各作成にかかるものであり、第十九号証は朝日新聞東京本社発行の昭和三十一年八月十五日附同新聞城北版中、「見事な原型できる」との見出しが附された記事、第二十一号証は昭和三十三年七月二十三日附須坂新聞中、霜田商事の広告欄であり、第八号証は原本の写を以て提出するものである、と説明した。

被告は、「原告の請求を棄却する。」との判決を求め、答弁として、

「一 原告主張の請求原因事実第一項中、原告が、長野県上高井郡綿内村妙法寺の住職であり、須坂市臥龍山頂に世界平和観音像の建立を発願したことは認め、その余は不知。

二 同第二項中、被告が右臥龍山に戦争犠牲者の慰霊碑を建設しようと計画したこと、及び須坂市が原告主張の観音像建立計画に対し、助成金として金三十万円を交付することを決定したことは認め、その余は否認する。但し、被告は須坂市議会の議員が発起人となつて被告の右慰霊碑建設計画を実行することを提唱し、同市及び同市議会等に運動したこと、及びこれに対し同市から、市議会議員がこの計画の先達となることは困る旨の書面を受けとつたことはある。

三 同第三項中、被告が、原告主張の日時頃その主張の川股相吉及び永井真吉の両名に面会した際、原告の観音像建立について意見をただしたこと、及びその結果につき、右両名が被告に対し原告主張のような言明をしたとの文言を含む一文を草して、これを原告主張の須坂新聞に投稿したこと、これが全文そのまま原告主張のような新聞記事として掲載されたことは認め、その余は争う。

四 同第四項中、被告が原告主張のような不動産を有し、須坂市において昭和三十二年以来霜田商事という商号を以て印刷業を営んで居り、凡そ金五百万円以上の資産を有することは認め、原告が現にその主張のような役職にあることは不知、その余は争う。尚被告は昭和三十二年以前は製袋業を営んでいたものである。」

と述べ、

証拠として、乙第一号証から第三号証までを提出し、第二号証は昭和三十二年三月二十八日附須坂新聞中低気圧欄の記事であると説明し、証人土屋泰親の証言及び被告本人尋問の結果を援用し、甲第一号証の成立を認め、第二号証の一から三までが原告主張のような写真であることは不知、第三号証の成立を認め、第四号証の一・二、第五号証の一から七まで、第六、第七号証の各成立は不知、第八号証は原本の存在及びその成立を認め、第九、第十号証及び第十一号証から第十四号証までの各一・二の成立はいずれも不知、第十五号証、第十六号証の一・二、第十七号証、第十八号証の一・二の各成立は認め、第十九、第二十号証の各成立は不知、第二十一号証の成立は認める、と述べた。

理由

一、原告は、長野県上高井郡綿内村所在妙法寺の住職であるが、須坂市臥龍山頂に世界平和観音像の建立を発願し、須坂市から右計画の助成金として金三十万円の交付決定を受けるまでに至つたこと、他方、同市において製袋業後に印刷業を営む被告も亦、右臥龍山に戦争犠牲者の慰霊碑を建設することを計画し、同市及び同市議会に働きかけてその協力を求めたが得られなかつたこと、昭和三十二年三月頃、被告が同市助役川股相吉及び同市議会議長永井真吉に面会し、その結果につき、右両名が被告に対し、観世音の建立問題については風聞悪く見通しはつかない、殊に三十万円の助成金はまあミスであつたと言明した、との文言を含む一文を草して須坂新聞に投稿し、これが同月十八日附同新聞寄書欄に、全文そのまま被告の名入りで掲載されたこと、は当事者間に争いがない。

二、そこで以下右争いのない事実に関し、これをより詳細に追究し、その相互関連を跡ずけてみることとする。

(一)  成立に争いのない甲第一号証、乙第二号証及び原告本人尋問の結果(第一回)により原告主張のような写真であることを認め得べき甲第二号証の一から三まで、同尋問の結果成立の認められる甲第四号証の一・二、第六、第七、第九及び第十号証、第十一号証から第十四号証までの各一・二及び第十九号証に、証人北沢六三郎、中島義昭、鈴木弥之助、源諦龍、夏目勝五郎の各証言及び原告本人尋問の結果(第一・二回。但し後掲措信しない部分を除く。)を総合すれば、次の事実が認められる。

原告が、前記世界平和観音像の建立を発願したのは昭和二十七年頃で、その趣旨は、「曾ての大東亜戦争に一死報国散華された二百万の英霊の御魂の御冥福を祈り、広島、長崎を始め、全国八十有余地区に於ける原爆又は爆撃により惨害を蒙つた戦争犠牲者幾十万の精霊の供養と、是等遺家族の告ぐるなき心情を慰め、且つ大慈大悲観音菩薩の妙智力を仰ぎ、世界平和と戦争絶滅を祈願」(「世界平和観音建立趣意書」の一節)するにあつた。そうして同年十月須坂市(当時は須坂町)での世界仏教徒大会にこれが計画を提案して可決され、翌二十八年十月松本市での第二回長野県仏教徒大会においても満場一致の賛同を得、更に翌二十九年十月須坂市臥龍山公会堂での第三回長野県仏教徒大会に際しては、世界平和観音建立発起人大会が開催されるに至つた。右発起人大会を経て、観音像建立の早期実現を期して非法人の世界平和観音建立期成同盟会が設立され、総裁に善光寺貫主東伏見慈浴、会長に原告が就任し、原告は名実ともにこれが計画の最高責任者となつた。右期成同盟会は、この計画の具体化として、観音像は銅張高さ百尺、コンクリートの基礎とも百三十尺、ほかに供養殿を設置する、予算は総収支各金五千九百二十万円、収入はすべて須坂、郡部、県下、東京方面等の一般人及び寺院等からの寄附を以てまかなう、との構想を立て、翌月には臥龍山頂の観音像建立敷地の借入につき、地主の承諾を得、その翌九月には、前記趣意書を発行して広く一般に右計画の趣旨、構想を宣明すると共に、これが計画の賛同者らから寄附を募る運動を展開したのである。而して右趣意書によつて、観音像は鉄筋銅張立像で高さ百尺、須坂市臥龍山頂に位置し、附属建物として供養殿、休憩所を設置し、建設費の概算は観音像建立費三千万円、附属建物及び附帯工事費二千万円合計五千万円とし、工事完成日時は昭和三十四年三月とすること明らかにした。そうして翌三十一年六月には観音像建立敷地において鍬入式が挙行され、他方七月頃には観音像の製作方を、原告から訴外鈴木弥之助を介して二紀会同人の斎藤聖香に依頼し、同人は八月高さ一尺五寸の、更に同年末高さ五尺の、観音像原型を完成したのである。

しかしながら、この間東京にあつては訴外加藤一郎なる人物に計画の進展を阻害され、又一般に寄附金募集の成績も振わなかつたので、原告は募金運動の一環として、同年十一月に長野市において武道大会を開催する企画すら考慮した程であつた。期成同盟会が昭和二十九年一月から同三十二年三月現在までの収支決算として明らかにしたところは、収入が須坂市からの前記助成金三十万円のほか、寄附金としては金二十五万九千三百八十円(但し寄附帳に記帳された額は金百六十二万円)にすぎず、その他利息や借入金を加えても合計金八十一万三百十円にすぎないのに対し、支出は本部事務費等の現実の支出額金百九十五万六千八百二十四円に、役職員給与等の未払金を加えれば金二百五十四万九千四百八十四円に達した。かくして、原告が私財までを投じて熱心に運動を展開したにかかわらず、当初の計画どおり総額金五千万円の予算を以て昭和三十四年三月までに観音像の建立を達成する見通しは到底つき得なくなつた。そこで原告は、訴外西川宗舟の助言と紹介もあつて、観音像の建立費用と型の両面から右計画を再検討すべく、訴外水原徳言にあらたに観音像の設計を依頼した。被告が、前記の如く須坂新聞に一文を投じたのは、恰もこの頃のことであつた。

原告本人尋問の結果(第一、二回)中、右観音像建立計画は加藤一郎によつて阻害されたことはないとの部分は措信せず、他に右認定を覆すべき証拠はない。

(二)  成立に争いのない乙第一号証と被告本人尋問の結果とによれば、次の事実が認められる。

被告は、昭和二十九年頃旧須坂町出身の戦没者の霊を慰めるため、前記の如く慰霊碑の建設を発願し、須坂市長及び同市議会議員全員が発起人となつてこの計画を達成することが事の性質上願わしいとして、須坂市長、同市議会議長、同議員に宛てて、同年六月「戦病没者慰霊碑建設建白書」を提出し、更に同年九月「質問書」を発して、右建白書の趣旨に対する賛同の意の有無を確かめた。これに対し、同年十一月須坂市議会議長名を以て「建白書の審議結果について」と題し、同市議会社会部委員会の審査の結果、戦争犠牲者の霊を慰めるため慰霊塔を建立するとの趣旨には賛成であるが、「英霊を慰めるために、靖国神社祭又招魂祭が行われており、はたまた近く臥龍山頂に戦争犠牲者の霊を慰め且つ世界平和を祈願するため、世界平和観音が建立されようとしている現在、社会部委員会としては、建白書にいう慰霊碑建立のため、市議会議員全員が発起人になられたいということには、にわかに同意できないということに意見の一致をみた」との回答書が発せられた。そこで被告は同月下旬直ちに「須坂市市民各位殿」と題する印刷物を作成し、右建白書、質問書及び回答書の全文をこれに刷り込み、あらためて須坂市民に右計画の趣旨を訴えて協力を求めると共に、「靖国神社祭があり招魂祭が行われるというて郷土の英霊を日本並に見て居る事は私の郷土愛がゆるさない、世界平和観世音像の建立に付而は、なんだかかつての大東亜共栄けんというた遠い夢のような気もする」と記して前記の回答に対し反駁を加え、これを市民に配布した。しかし事態が右の如くであるのに鑑み、被告はその計画をそのままとして、暫らく時の推移をみることとした。

この認定を動かす証拠はない。

(三)  成立に争いのない甲第三、第十五、第十七号証、乙第一号証から第三号証まで、原本の存在と成立に争いのない甲第八号証及び原告本人尋問(第二回)の結果により成立の認められる甲第五号証の一から七まで、第十四号証の一・二、並びに証人川股相吉(第一、二回)、永井真吉、土屋泰親の各証言(但し証人川股相吉及び永井真吉の証言中後掲措信しない部分は除く。)及び被告本人尋問の結果を総合すれば、次の事実が認められる。

(1)  被告は、右(二)に記したように時の推移をみることとしてから三年余を経た昭和三十二年三月上旬、たまたま須坂市助役川股相吉及び同市議会議長永井真吉に道路の改修等について陳情した際、用談を終えたので川股相吉に世界平和観音像建立の見通しはどうかと質問したところ、同人は、原告が東京の山師に食われているとの噂や、寄附金も思うように集まらぬ実情であることを述べ、風聞が悪くて困る、見通しはつかない、と返答したので、被告は更に、では三十万円の市の助成金はどうなるかとただしたのに対し、同人は、あれはまあミスだ、と答えた。永井真吉はその場に同席してこの問答をだまつて聞いていた。

(2)  かくして被告は、世界平和観音像の建立が見通しがつかなくなつたのを知り、昭和二十九年以来差し控えていた自己の構想になる前記慰霊碑の建設計画を実行に移すときであると考え、直ちに、発願当時該慰霊碑用の石材として予定していた仙台石の所有者方へ赴いたところ、すでにそれは第三者の手に渡つていた。そこで被告は、自己の右計画も空しくなつたのを嘆じ、そのことを須坂新聞を通じて一般に訴えるべく、前出(一)に記した文言を含み、右の経過を叙した一文を草して同新聞に投稿した。昭和三十二年三月十五日頃のことであつた。この須坂新開は、発行所は須坂市にある須坂新聞社、一箇月三回発行、購読料一箇月金三十円、当時の発行部数は約九百部、そのうち六百部は須坂地区に販布されていた。編輯担当記者と称する訴外酒井正人が、自宅においてこの編輯に当つて居り、被告は同人に対し右の投稿文を手渡して新聞に掲載してくれるよう依頼し、酒井正人はその場でこれを一読して掲載を諒承した。かくしてこの一文は、同新聞社において、「平和観音と慰霊碑について」との見出しを附した上、前記の如く全文被告の原稿のまま、被告の名入りで、同月十八日附同新聞寄書欄に掲載されたのである。

(その後原告は、前記期成同盟会会長として、直ちに同新聞にこれに対する反駁文を寄せ、これが同月二十八日附同新聞低気圧欄に掲載されたが、その中で、被告の軽率な態度を責め、あらためて世界平和観音像建立計画の大事業なることを説き、今や第二の段階に立つて居り更に懸命の努力を続けると誓い、お互いに各自の計画を遂行すべく協力しようと呼びかけたのであつた。翌四月には水原徳言から、観音像を高さ百尺鉄骨アルミニユウム貼金色仕上にし、台座に売店食堂及び展望広場を設ける等新しい設計図が原告の下に届けられた。しかし、原告は右期成同盟会会長の名において同年六月被告を信用毀損並びに業務妨害で長野地方検察庁に告訴するに及んだのである。)

証人川股相吉(第一、二回)、永井真吉、相沢覚の各証言及び原告本人尋問の結果(第一、二回)中、右(1) ないし(2) の認定に反する部分は措信せず、他にこの認定を覆すべき証拠はない。成立に争いのない甲第十六号証の一・二を以てしても右(1) の認定を左右するに足りない。

三、原告は、被告が須坂新聞に投稿した一文中前記川股相吉及び永井真吉両名の言明として記した部分は、被告の捏造にかかるものであり、かりに真実であるとしても、かかる内容を含む一文を草して右新聞に投稿し、掲載せしめた行為は、着々進捗しつつあつた世界平和観音像建立計画を一頓座せしめ、延いて原告の名誉ないし信用を毀損するものであつて、被告の故意もしくは過失に基く不法行為であると主張する。

しかしながら、以下に明らかにするように、原告の右不法行為の主張は容れられないところである。

(一)(1) 被告の右一文中当事者間に争いのない川股相吉、永井真吉の言明として記した部分は、右両名の言明とした点が若干問題であるが、捏造とは言えないことは、前出二の(三)の(1) に認定したところから明らかである。もとより一字一句川股相吉の言葉どおりではないとしても、先ず真実を伝えたものとみて差し支えない。又永井真吉が、同じく右において認定したとおり、川股相吉が右の如く言明した際同席していて黙つていたことは、当時同人は、前出二の(一)に認定したような世界平和観音像建立計画の当面した困難な状況を知つていたものと考えられること(証人永井真吉の証言に徴する。)などから、この言明に対する肯定的沈黙であつたとみられるのであつて、被告が永井真吉も川股言明に同感したものと考えたとしても誤りではなく、かような判断から右両名の言明と表現したものと考えられる以上、表現上若干の配慮が足りなかつたことは否めないが、これを虚構の事実を捏造したものとまでいうことはできない。

(2)  しかしながら、被告が右一文において右両名の言明として記した部分は、全体の文章の関連において客観的に眺めてみると、自己の慰霊碑建設計画の挫折に至る経過の叙述としての意味を持つばかりでなく、被告が世界平和観音像建立計画に対していだいていた一種の反情(後出(三)に記す。)が表明されているとみられないことはない。けれどもそれは、右観音像の建立計画に対する第三者の批判ないし感想をそのまま伝えるという記載形式をとり、被告自身の憶測や修飾を加えて居らないのみならず、その記載内容自体からは、あくまでも右の計画そのものに向けられていて、どこにも原告個人を特定し、もしくは想定した節は認められない。前出二の(一)に認定したところから明らかなように、右の計画を進進する主体は、非法人であるが世界平和観音建立期成同盟会であつて、原告はその代表者として最高の責任を負うにすぎない。にもかかわらず、この計画に対する右の次第の反情の表明を以て、直ちに原告個人に対して向けられたものとし、更にはその名誉ないし信用に対する毀損の意味内容を有するとするのは、明らかに当を得ない。

(二) 被告が、右川股相吉、永井真吉両名の言明として伝えた部分を含む一文を草して、須坂新聞に投稿した事実は当事者間に争いのないところであるが、この行為と昭和三十二年三月十八日附同新聞寄書欄へのこれが掲載行為とを直ちに結びつけることはできない。何となれば、前出二の(三)の(2) に認定したところと弁論の全趣旨とに徴すると、須坂新聞なるものは、いわゆる地方新聞の一種に属するものとみるべく、尚独自の編輯権限を有し、被告の投稿文の如きも、これをその新聞紙上に掲載すべきか否か、掲載するとしてその見出し、内容の取捨選択、活字の大きさ等は、編輯人と目すべき酒井正人の権限と責任にかかるものといわなければならない。従つて前記日附の須坂新聞寄書欄に、右一文を「平和観音と慰霊碑について」との見出しの下に、原文のまま被告の名入りで掲載した行為自体の責任は、一応須坂新聞社もしくは編輯人たる酒井正人が負うべき筋合である。但し、被告がこれらのものと特殊な関係にあり、被告の投稿とあれば常に必ず同新聞に掲載される状況にあつたとか、特に右一文を掲載せしむべく、酒井正人を欺罔したとか威圧したとかの事実があれば格別であるが、かかる事情を認むべき何らの証拠もないばかりか、却つて被告は単なる一投稿者として右の一文を寄せたにすぎず、酒井正人の自由な判断によつて掲載が決せられたことを知るのに十分である。してみると被告の行為は、右一文を作成してこれを須坂新聞に投稿したというにすぎないのであつて、右新聞紙上にこれを掲載したとかせしめたとかという行為には直接関与していないこととなる。そうしてかかる単なる投稿者にも、その投稿文が新聞に掲載されたことによつて生ずべき第三者の名誉ないし信用等の毀損の結果について責任を負わしめることが可能なためには、その投稿文の内容や投稿の意図などが余程異例の場合でなければならないであろう。原告は、須坂新聞社もしくは酒井正人の責任と被告の責任とを混同しているきらいがある。

(三)  原告の世界平和観音像建立計画と、被告の慰霊碑建設計画とは、ほぼ相前後して発願され、且つ或る程度類似の性格を持つこと、原告の計画については、須坂市が金三十万円の助成金を交付してこれを後援したのに反し、被告の計画に対しては、同市側から、原告の計画が近く実現されること等を理由として一応協力を拒まれたことは、前出一及び二の(一)、(二)に記したとおりである。これらのことから、被告が原告の発願にかかる右観音像建立計画に対し、多かれ少かれ反情をいだくに至つたであろうことは推測するに難くない。被告が昭和二十九年十一月下旬須坂市民に配布した前記「須坂市市民各位殿」と題する書面(前掲乙第一号証)によれば、被告がそこにおいて「世界平和の観音像が建立される諸君、須坂市に建てようとするものに、他村の村長を委員長として須坂市長の名が出ていない他力本願であの大事業が大成するものですか、いまだ臥龍山へ建てるという場所の選定確約が出来て居ないですぞ」と、又「世界平和観音像の建立に付而は、なんだかかつての大東亜共栄けんというた遠い夢のような気もする」と述べていること、及び被告本人尋問の結果によれば、右にいわゆる「他村の村長」とは、原告を指したものであることが認められ、これらも右の推測を肯認せしめるに足りる。しかし反面右書面において、被告は、「私はまず慰霊碑を建立して英霊を祭り、臥龍山頂には世界平和観世音像を建立する大希望のにまずまず地元の英霊の墓を建てたいと念願いたします。……場所は臥龍山中腹山頂には平和観世音像の場所といたし度私案であります」とか、前記「靖国神社祭があり招魂祭が行われるというて云々」とか述べているのであり、更にこれより先、被告が始めて自己の計画を公にしたとみられる同年六月二十一日附の須坂市長、同市議会長、同議員宛の「戦病没者慰霊塔建設建白書」には、「須坂市に於て世界戦死者の慰霊の為一大観音像を建立の計画があります由賛意を表するものでありますが、これあるがため私建白の慰霊塔がいらぬという意見はピントがはずれて居ります。右観音像は観光の面より企画されて居ります、そして其の実現や遠大のものであります。いとしの夫子等にいつ迄も墓も建て得ず過す事の親子の情に思いを馳せますれば、この私の発現は遅きに失して居ります。」と記していることが知られる。これらを比較検討すれば、被告の真意は、当初から必ずしも原告の右計画を排斥するにあるのではなくて、自己の計画とはその趣旨を異にするところがあり、その規模や実現までの時間においても甚だしく差異が存し、従つて両者は相並んで存在意義を有するとしていたものであることが看取される。もつとも、被告は、自己の計画につき前記のような理由の下に須坂市側から協力を拒否されてからは、この両計画の併存が実際上困難であることを感じ、そのことから、単に右観音像建立計画に対する反情のみならず、その発願者であり、最高責任者である原告個人に対する反情をいだきつのらせたであろうことも一応想定されるのであるが、このような想定を裏ずけるに足りるだけの証拠はない。

右の次第であるから、被告は、もともと原告の発願にかかる世界平和観音像建立計画を妨害して、原告の名誉ないし信用を毀損しようとする意図を有していたものではなく、又前記の一文を須坂新聞に投稿した際も、かような意図の下に新聞紙上にこれを掲載させようとはかつたものでもないといわなければならない。

原告が、それによつて自己の名誉ないし信用を毀損されたと主張する被告の侵害行為なるものの実態は、以上(一)ないし(三)においてみたとおりであつて、その内容、方法及び意図、換言すればその態様を綜合して考えれば、未だ違法性を具備するに至らないものといわなければならない。

四、従つて、被告の不法行為を前提とする原告の本訴請求は、爾余の争点に関する判断に立ち入るまでもなく失当として棄却すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 高野耕一)

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